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漢方医VS西洋医(明治時代)

漢方・鍼灸などの東洋医学は(日本では)歴史上2度ほど存続の危機がありました。
1度目は明治時代。2度目は第二次世界大戦敗戦後のGHQの指導によるものでした。

今日はその明治時代のちょっと「へぇ~」なお話。


明治になり日本は西洋化を一気に推し進めようという方針のもと、政府は伝統的なものを次々と切り捨てていきました。漢方・鍼灸もその一つで、明治政府は主にドイツを模範とした西洋医学を本格的に導入し始めました。

明治9年1月、政府は「医術開業試験」の実施を布告しました。その試験科目は7科目ですべて西洋医学の科目でした。それの意味するとろころは、「西洋医学を修めた者だけを医師と認める。それ以外のものは医師ではない」ということでした。

それに対して憤慨したのは漢方医・鍼灸医達でした。

これまで漢方医・鍼灸医を目指していた青年たちの前途が閉ざされてしまうし、後継者がいなくなる。いや、それよりその時点で、漢方医・鍼灸医の存在が否定されたことになるじゃないか。ということで、全国の漢方医・鍼灸医達が団結し漢方・鍼灸存続運動をくり広げました。

そして、幾度もの漢方・鍼灸医陣営と西洋医学陣営との対決が行われたのです。

「理論対決」=学術的にどちらが優れているか対決した、「政治的対決」=さまざまな政治的運動によって存続を図った・・・など、いろいろな勝負を挑んだようです。なかでも、戦いの総決算というべき最大のクライマックスが「治療対決」です。


それはどういうものであったかというと、わが国の風土病として早くから外国人医家にも注目されていた『脚気』=【ビタミンB1欠乏症。ほとんど日本だけの病気で、心臓と全身の神経系統に強い症状がでる】は、当時の西洋医学では、本体も治療法もわかりませんでした。

政府はこの問題に手を焼いた矢先に明治天皇が脚気にかかってしまったのです。このとき天皇の側近が、脚気の治療で有名であった漢方医の遠田澄庵を侍医にせよと進言しますが政府側はそれを承諾しませんでした。

そこで、ついに政府は専門病院を設け病院内のベッドを二分し、漢方医と西洋医の双方でその治療成績を比較することになったのです(政府の本音は脚気治療の秘伝を誇った遠田澄庵に、その秘伝をなんとか公開させようということにあったらしい)。


気になる結果は、漢方医側の勝利と伝えられています(諸説ありますが)。

しかし、治療をした漢方医・遠田澄庵が「これはわが門の秘伝であるので内容は公開できない」との旨を表し治療方法公開を拒否してしまったので、漢方側は失脚してしまいました。

しかし、遠田は政府に対する報告書に「脚気は其の原、米にあり」と記し、麦と赤小豆を食べることをヒントとして与えました。

これに着目した海軍軍医総監・高木兼寛(たかき かねひろ。 後に「ビタミンの父」とよばれ、その偉業を世界から称えられる)は、白米食が脚気の原因であると考えパンや麦飯を食べることを海軍内で実践した結果、海軍からは脚気はなくなりました。

漢方医・遠田澄庵はなかなか頑固な姿勢を貫きながらも、西洋医側にヒントを与えたことが結果的に医学の発展につながったのです。しかし、結局、漢方・鍼灸はこれ以降急速に衰退の一途をたどっていきます。


ちなみに、その「脚気米原因説」に真っ向から反対し、「脚気ウイルス原因説」を唱えていた代表的医者のひとりが陸軍軍医総監・森林太郎=後の、文豪“森鴎外”でした(森鴎外はドイツで細菌学の権威、ローベルト・コッホに学んだ)。このため、陸軍では脚気患者が減らず、日清・日露戦争での戦死者よりも脚気で失われた命のほうが多かったといわれています。
by acure0038 | 2010-05-15 14:10 | 中医学(中国医学)
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